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胸ロゴは?

胸ロゴは?

どうなるのかな?

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「国宝風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造 併設:仙崖展」

Fujin会期*2006.9.9(土)〜10.1(日)

 その昔、私にとって風神雷神といえば、風邪薬のCMキャラだった。大人になってから出会った本物の彼らは、やっぱりお茶目なキャラだった。
 怖い神様のはずの彼らを、妙に親しみやすいキャラクターに描いたのは俵屋宗達、琳派のいわばご開祖様である。
 屏風は二曲一双。左隻には天衣をはためかせ「雷落としちゃうぞ〜」と、ニタリと笑ってミエを切る雷神が、右隻には「ごめ〜ん!遅れちゃった!」とばかりにバタバタとやってくる風神が描かれている。
 金地という豪華な体裁にも関わらず、宗達がかる〜いノリで描いているこの屏風を、数十年後模写して同様な二曲一双の屏風を制作したのが、尾形光琳。文字通り琳派の琳の字の出所である。
 その光琳からおよそ百年後、今度は光琳の描いた風神雷神図を、酒井抱一が模写し同様に屏風にした。
 今回の展覧会は、この3点を同時に展示しその比較を行うことを核に、琳派の流れを見せようという企画。
 こんなことができちゃうのは、3者がそれぞれビッグネームだから。ちなみに私は抱一様のファンである。
 
 「比較!」というポリシーが明確なので、見ていてわかりやすい。展覧会に先立ち「尾形光琳の模写はトレースによるものだった」という発見が新聞で報じられていたことも記憶に新しい。
 トレースとか聞くと「なんだあ」とか思ってしまうかもしれないが、そうした写しは日本の絵画では悪いことではなかった。というかむしろ良しとされていた。音楽でいえばカバーヴァージョンである。ちなみに、画風まねも奨励された。こちらはさしずめリスペクトといったところであろうか。
 トレースがベースとはいうものの、光琳は自分の好きなように手をいれて作品を仕上げている。その手の入れ方に、光琳の「自分ならこうする!」という意図が見えてくるところが、今回の比較展示の面白さのひとつである。
 一番大きな違いは、雷神のトリミング。宗達バージョンでは、太鼓の輪が裁ち落としになっているが、光琳は輪が切れないようにレイアウトを変更している。私としては、裁ち落としの方が動きや広がりがあってカッコイイと思うのだが、光琳にはなっとくが行かなかったと思われる。
 あと、目立つところでは、色調の変更。色調については、宗達の方が100年近く古いということもあるが、光琳版の方が鮮やかである。そのせいか、光琳版の方が全体的に華やかな感じになっている。やっぱり呉服屋のお坊ちゃまだけあって、華やかなものがお好みか。
 さて、三番目の抱一版はといえば・・・。模写に模写を重ねたせいか、細部の形がかなり崩れてきている。宗達版には、立体としてイメージした風神雷神を二次元に表現したという形態把握が感じられるのだが、抱一版にはそれが感じられない。絵柄を写しただけで、立体を平面に描くという観点が忘れられてしまったようにみえる。その最たるところが風神の腹のくびれや雷神の右足の爪である。加えていえば、風神の顔の崩れも激しい。
 ちなみに、抱一は光琳の大ファンであって、宗達の「風神雷神図」は見ていないのではないかとされている。加えていえば、光琳は宗達の絵をトレースして写したのだが、抱一は光琳の絵を見て模写しているのである。
 トレースや模写をしたことのある人ならわかると思うが、時々オリジナルの作者の描線の意味がわからないまま線を引いてしまうことがある。それが伝言ゲームのように積もり積もると、時として得体のしれない表現になってしまうのである。
 写しを重ねると絵が変わっていってしまう。という実例としても、興味深い展示である。

 もっとも、抱一版の崩れっぷりは「抱一さま、風神雷神図のことあんまり好きじゃなかったでしょう」とツッコミを入れたくなるほどなのだ。
 私は抱一様のファンだ。「夏秋草図屏風」やプライスコレクションや御物の「十二ヶ月花鳥図」などは、そこに描かれた草木の形を目で追うだけで恍惚としてしまう。その曲線は拓海かセナか(^^;というくらいで「もうここにしか引けない!」絶妙なライン取りで描かれているのだ。
 抱一様には「波図屏風」(静嘉堂美術館)のようにダイナミックな線の作品もある。でも、それともちがう。なんとなく、楽しんで描いていない感じがしてならない。
 
 そんな「風神雷神図屏風」よりも、抱一様ファンとしては、「紅白梅図屏風」の展示がうれしかった。
銀地の六曲一双。左に白梅、右に紅梅が一本ずつ描かれている。細くしなやかな白梅、どっしりとしてやや直線的な枝振りの紅梅。銀色の地とあいまって、静謐な空間を作り出している。

これ一点、見れただけで十分幸せだった。

オマケ:併設の仙崖展
「おつきさまいくつ十三七つ」はサイコー。そのあまりのユルさに腰砕け(^^;;カッコいいぜ仙崖。

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埼玉ダービー

埼玉ダービー

暑いのに テンション高い ゴール裏

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江戸城

江戸城

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いったい、ここはどこ?

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ここはどこでしょう?

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さて、どこでしょう?

さて、どこでしょう?

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丸の内カウアート

丸の内カウアート

大手門前の信号のかたわらに1頭発見!

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グエムル 漢江の怪物

 なんというか、普通の映画。単純に面白かったとか、つまらなかったとかいう言葉でくくれない微妙な違和感が残った映画でもある。

 日常的な暮らしに、突然、不条理な災難が降り掛かる。
 妻には逃げられ売店の店番すらまともにできないダメダメな長男、大学時代に民主化運動の戦士だったが時代にのれなかった次男、才能はありながらここ一番に弱いため頂点に立てないアスリートの長女。長男と彼に似ずしっかり者の娘は、漢江河畔のちいさな売店を切り盛りする祖父とともに生活している。
 この、家族を襲う災難が〈グエムル〉なのだが、これが〈通り魔〉とか、〈テロリスト〉でも変わらないのではないかと思えてくる。日本の怪獣映画には、おとぎ話的な一種の非現実感がつきまとうのだが、ここにはそれがない。あくまでも限りなく現実に近いところで描こうとしている。登場人物は、人それぞれに見合った分の力しか発揮できないし、怪獣映画にありがちなご都合主義もない。それでもなんとかしようとあがく。それゆえに、この映画は、一種の問題提起的な読みを誘うのかもしれない。(民主化を担った人たちが報われていない、とか、米軍のいいなりにならざる得ない状況、とか)
 
 そうしたこととは別に、一見同じようだがずいぶん違う、というシーンがあって興味深かった。そのひとつが、怪物に襲われた犠牲者の合同葬儀の場面である。ものすごく騒々しい。日本であればこのシーンは水を打ったように静かに描かれる場面なのだが、終始ザワついているし、声高な愁嘆場の集合になっている。監督の意向なのか実際そういう国民性なのかはわからない。見た目が似てるだけに違和感が大きい。他にも、日本だったら、まず、お上の言うこと聞いちゃいそうな所で、黙っていない。そのテンションの高さが、ちょっぴりうらやましい。

 

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